1964年4月2日(木)お産婆さんの手によりこの世に誕生。
生まれも育ちも岩手県水沢市。現在の奥州市水沢区です。
途中で変わっていなければ、血液型はB型。
生後2日目
かわいい妹の誕生を大喜びした7歳上の兄。
やっと会えると喜んで母の実家にきたそうだ。
そして、私を見て『ゴジラみたいだ・・・』とつぶやく。
期待が大きすぎたのであろう。女の子は可愛いものと信じ込んでいたのだ。
自分の妹が『ゴジラ』だったなんて、ショックのあまり、いくら父親に誘われても、
それから私を見に来る事はなかった。
私の最初のニックネームは『ゴジラ』だったのです。
1歳の誕生日
『ゴジラ』こと佐々木ひとみは、成長が早かった。
生後9ヶ月には歩き出していた。
だから、1歳の誕生日に1升の餅を背負わされても平気だったのです。
で、餅を背負ったまま、隣の家まで歩いていった。
そう、鼻息を荒くして・・・・。
そんな、けなげな私を見て、隣のおじさんはつぶやいた。
『力道山が来た』と。
私はゴジラから力道山へと進化したようです。
かけっこでは、いつも1等賞だった幼稚園時代。
愛唱歌は千昌夫の「星影のワルツ」。隣のおばあちゃんに、歌ってあげると
いつも褒められた。
そんな私は婦人警官になりたかった。
しかし、浅間山荘事件を白黒テレビで見て、身の危険を感じ、
すぐに、やめました。
当時から自分の気持ちにとっても素直に反応した子供なので、
優秀な成績で幼稚園を卒園しました。
ゴジラや力道山と言われたものの、
小学3年生の時には、「エースをねらえ」というアニメが流行っていて、
『お蝶婦人』と言われた時期があった。
やっぱり、隠しても上品さがにじみ出るのであろう。
そんなかわいい小学生の私は、変なおじさんに声をかけられる事が多かった。
今思えば、とっても危険な事もあったのです。
ある日、学校の帰り道にトレンチコートを着た変なおじさんに
道を尋ねられました。
私が、いつもどおり可愛く教えてあげたら、おじさんは
「あなた、綺麗な声をしてるね」と言って去っていったのです。
私の将来の夢は、このおじさんの一言で決まりました。
『アナウンサーになろう!!』とね。
しかしながら、中学生になった私は、部活動といえば運動部でしょう!と思っていた。
放送部なんて見向きもしなかった。
で、一番激しそうなバスケットボール部を選び、
たくましい太ももを築いた。
太ももだけではなく、お尻も育った。
自転車で通学中、幼なじみの千田恵さん(芸能人などではありません)が
「自転車のサドルからお尻がかなりはみでてるよ」と、いつも笑いをこらえながら
言ってくれた。とてもありがたい友人だ。
高校進学。
頑張れば地元の進学校に入れたが、頑張るのが嫌だった。
で、隣町の普通高校に入学。
その学校は過去にたった一人現役で東大に入った卒業生がいることを
誇りにしていた。
でも、やっぱり頑張るのが嫌で、3年生の時は成績の順番が一気に下がり
最後から数えた方がはやくなった。
でも、気にならなかった。
先生があまりにも勉強しない私を見て、
「入試では15番以内の成績で入ってきたのにね~~」と
残念そうにつぶやいたことを覚えている。
そんな私だが短大には行こうと思っていた。
だって、当時アナウンサーになるには。短大卒以上でなくてはならなかったのさ。
そろそろ年末。受験する学校を決めなくてはと思い、自分が入れるところを探した。
どこでも良かった。
私が入れそうな学校のパンフレットを見てショックを受けた。
シロクロのパンフだった。
ただそれだけで、こんな暗そうな学校には行きたくない!と思ってしまった。
カラーの綺麗なパンフレットの学校に行こう!
やる気がおきるなんて、そんなもの。
それから2ヶ月あまりかけて勉強した。
睡眠時間9時間の私が、5時間に減った。
幼稚園からの幼なじみの千田恵さん(タレントではありません)が
自転車で転んで目のまわりに黒いアザを作りながらも
「目の下にクマがでてるよ。大丈夫?」と優しく声をかけてくれた。
あなたの目のまわりのほうが、誰が見ても痛々しいのにサ。
そして、めでたく志望校に受かった。
短大時代は生活費をかせがなくてはならなかったので、
アルバイトばかりしていた。
だから、やっぱり就職活動など頑張らなかったので、
アナウンサーの試験は惨敗だった。
なんのために、短大にいったことやら・・・
ただバブリーな時代だったので、損害保険会社に入れた。
お給料がかなり良かったが、帰りはいつも遅かった。
しかもやりたい仕事じゃなかったから、さっぱり仕事を覚えなかった。
今、また、事務職についても、要領が悪いと思う。
それなのに、7年も務めた。お給料が良かったからだ。
でもね。お給料がいいだけでは、やっぱりダメだった。
いつも頭の中ではアナウンスの仕事につきたいと思っていた。
アシスタントやリポーターに応募しはじめた。
年に1度の募集に、翌年も行ってみると、覚えてもらえていた。
最後まで残る事が多かったので、落ちてもなんだか楽しかった。
まだとってもウイウイシイ26歳なのに
「転職なんて考えないで、お嫁にでもいったら。」という面接官もいた。
てやんでぇい!ますます燃えたゼ!
そんな私のマイクを持つ仕事の始まりは
三陸博覧会のイルカショーのおねえさんだった。楽しかったなぁ。
短期で終了したので、また仕事を探し始めたところ
隣の市のケーブルテレビで放送制作の社員を募集していた。
「25歳までの男性若干名募集」というものだった。
ラッキー!と思った私。
(注:私は一応女性で当時28歳)
早速履歴書と、イルカショーの自分のVTRを持参し、面接だけでもとお願いした。
試験会場には、若い男性ばかり。そこに、28歳の女性の私がひとり。
ダメモトだからとっても余裕があって、面接の直前まで、近くにいた部長と
世間話をしていたくらいだった。
試験の満足感はあったものの、落ちているのは確実だろうから、
仕事をしなくちゃなぁ~~と思い、私が選んだ仕事は、「馬の調教師」だった。
隣町の牧場で、女性調教師を募集していた。颯爽と馬にまたがる自分の姿を夢に見て
牧場で働き始めたが、時は収穫の秋。農家から持ち込まれる藁を厩舎に運ぶだけで
一日が終わっていった。
1週間働いた頃に、ケーブルテレビから採用の通知がきて、藁運びは終わった。
ケーブルテレビで学んだ事は、計り知れなかった。
ネタ探しから、取材、撮影、編集、アナウンスとすべて自分達で行うところ。
アナウンスだけならまだしも、原稿を書けなくて、かなり落ち込んだ。
だから、文章を書くのはトラウマになっていたんだけど、
こうして今書いていられるのは、「間違いだらけの文章でも良いんだよ。
ひとみちゃんが書くんなら、どんなんでも良いんだよ」と、何度も言ってくれた相棒のお陰さ。
てにをはなるものを気にしていたら、私一行も書けないもの。
で、話をもどそう。
30歳になったころ、突然「結婚披露宴を作りたい。
そう、名刺交換の場になっているような披露宴じゃなくて、
本当にみんなで祝ってあげられるようなものを!」と思ってしまった。
何かが降りてきたっていう感じだった。
フリーになるってことは、健康保険が社保から国保になっちゃうし、
第一、仕事がどこから来るかも全くわからなかったが、
根拠の無い自信があって、ケーブルテレビを退社。
損保の会社を辞める事も、牧場で働く事も、
ケーブルテレビを辞める事も、両親にはいつも事後報告。
「今度は何やぁ~~」と、いつも親はヒヤヒヤしていたが、
なぜか私の言葉に納得していた。かなり騙されやすいタイプの両親なのだ。
披露宴のプロデュースとアテンドなどを勉強するために、
夜行バスで毎週東京に通いながら、まず自分ができることは何かと考えて、
司会から始めることにした。
それから10年余たちましたが、お世話になりたいなと思っていたホテルからずっと仕事を頂き、
本当に順調に過ごしてきました。
そして2002年からコーチングのトレーニングをはじめ、
司会者とコーチの二つの顔を持ち、岩手県内各地に顔をだしています。
コーチングと出会ったお陰で、パンパンに張っていた弦がゆるみました。
「ねばならない」が多かった私ですが、今は、それもアリだよなって思えるようになったよ。
とってもラクな気持で、仕事もいい感じでしています。
いろいろあったけど、いつも「今がいい」って思ってます。